吉田 遠志

1911–1995

バイオグラフィー
吉田 遠志(よしだ とおし / YOSHIDA Tōshi)
1911–1995
東京都生まれ 版画家・画家

吉田遠志は、1911年7月25日、東京に生まれた。父は日本を代表する新版画家吉田博、母は画家・版画家の吉田ふじをであり、弟には版画家吉田穂高がいる。幼い頃から吉田家の工房で過ごし、父の制作や彫師・摺師の仕事を間近に見ながら、絵画と木版画の技術を身につけた。13~14歳頃から父に本格的に木版画を学び、若い頃から動物を好んで描いていた。
1920年代には、木版画による動物作品を制作しており、東京国立近代美術館には1927年の《文鳥》、1930年の《雷鳥》が所蔵されている。これは、遠志が非常に早い時期から木版画家として高度な技術を身につけていたことを示している。
1930年には父・吉田博とともにインド、ビルマ(現ミャンマー)、マレーシアなどを旅行し、1936年には中国東北部や朝鮮半島を訪れるなど、海外への写生旅行を経験した。こうした旅行は、遠志の風景や動物に対する関心を広げる重要な経験となった。戦前にはアジアだけでなく、ヨーロッパ、エジプト、アメリカなどにも父とともに渡っている。
1932年から1935年には、父が設立に関わった太平洋美術学校で学んだ。油彩画にも取り組み、1938年には太平洋画会に初入選。その後も絵画と版画の双方で活動した。
父・吉田博からの影響
遠志の初期作品は、父・吉田博の影響を強く受けている。特に1930年代から1950年代初頭までの作品には、父に近い写実的な風景表現と精緻な多色木版技法を見ることができる。
1938年の《東京夜景》など、初期の作品は父の作風との類似が強いとされている。しかし遠志は、単に父のスタイルを継承するのではなく、次第に自分自身の主題と表現を模索していった。
興味深いのは、父・博が山や風景を好んだのに対し、遠志は海や動物へと関心を広げていったことです。後の作品では、自然を単なる風景としてではなく、そこに生きる動物や生命の世界として捉えるようになります。
戦後の独自表現
1950年に父・吉田博が亡くなると、遠志は吉田家の工房を引き継いだ。しかし、1950年代に入ると、父から受け継いだ伝統的な木版画とは異なる方向にも積極的に挑戦するようになる。
特に1952年頃からは、工房の職人たちに頼らず、自ら制作する創作版画的な大判作品を手がけるようになった。抽象的な形態や大胆な色面を用いた作品を制作し、戦後の日本における新しい版画表現へと接近していった。
この時期の作品には、写実的な風景だけではなく、抽象的な構成や大胆な色彩を持つ作品も見られる。1953年の《作品 No.10》などは、戦後の遠志が新しい版画表現を模索していたことを示す作品の一つである。
動物版画
遠志の最も大きな特徴となるのが、野生動物を描いた木版画です。
1950年代以降、遠志はアフリカ、北米、中南米などへの旅行を重ね、そこで実際に動物や自然を観察した経験を作品へ取り入れていった。ライオン、象、キリン、シマウマ、トラ、クマ、鳥類など、多様な野生動物をその生息環境とともに描いている。
遠志の動物作品は単なる動物図鑑的な描写ではなく、動物とその環境を一体として捉えていることが特徴です。広大な風景の中に動物を配置することで、自然環境そのもののスケールや生命感を表現しています。
また、遠志は生涯を通じてさまざまな技法・スタイルを試みており、写実的な風景、抽象作品、動物画、児童向け作品など、非常に幅広い制作を行いました。
『動物絵本シリーズ』
遠志の活動を語るうえで重要なのが、木版画による**『動物絵本シリーズ』全20巻**です。
これは野生動物を題材とした作品を絵本形式でまとめたもので、遠志の動物に対する深い関心を示しています。彼は動物を単なる装飾的なモチーフとして扱うのではなく、自然環境の中で生きる存在として描き続けました。
国際的な活動
戦後、遠志は日本国内だけでなく、海外でも積極的に作品を発表した。
1952~53年にはアメリカやヨーロッパを訪問して作品を展示し、版画について講演を行った。1954年にはシカゴ美術館で版画を教えた記録もある。さらに、オーストラリア、メキシコ、カナダ、アメリカ、アフリカなど、世界各地を訪れ、国際版画展にも出品した。
1957年から1962年にかけては東京国際版画ビエンナーレに出品し、ルガノなどの国際版画展にも参加した。海外での評価も高く、作品は世界各地の美術館に収蔵されている。
晩年まで制作を続け、1995年7月1日、東京都内で前立腺がんのため死去した。83歳だった。

吉田 遠志


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