Masuo IKEDA - 池田満寿夫

1934 - 1997
20世紀が生んだ日本を代表する版画家

バイオグラフィー
1934年、旧満州に生まれ、終戦の年に父母と共に長野に引き揚げた。
1952年高校を卒業後、画家を志し上京。東京藝術大学を受験したが進学できず。その頃、靉嘔に出会い、彼を通じて瑛九と久保貞次郎と出会う。瑛九は当時デモクラート美術協会を創設し、若き作家のリーダーとして大きな影響力を持つ人物だった。また久保は「創造美育」運動の主宰者であり、版画のコレクター、そして美術評論家でもあった。瑛九から版画の制作を勧められた池田はデモクラートの参加作家たちと交流を持つ。池田がデモクラートの展覧会に出品するのは最後の一回だけだが、解散後も泉茂や吉原英雄など、関西を拠点としていた版画家たちと交流を続ける。また久保の後援もあり、ますます版画制作が盛んになる。
戦後、国力の回復してきた日本は、最初の国際展として東京国際版画ビエンナーレ展を組織し、第一回展が1957年に開催され、日本を含め世界各国から版画作品が出品された。この時に泉が賞をとり、メンバーの多くが入選したことでデモクラート美術家協会は解散する。
しかし、池田をはじめ若い画家たちは版画の可能性に目覚めて出品を続け、中でも1965年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された個展は、ジャスパー・ジョーンズやジム・ダイン、デイビット・ホックニーら同世代のポップ・アーティストと肩を並べ、翌年のヴェネチア・ビエンナーレでの版画部門国際大賞へと繋がり、度重なる受賞と世界各国での個展開催へと飛躍をみせ、脚光を浴びた。
1960年代後半から1970年代はヨーロッパ各地やニューヨークに拠点を置き、1980年代以降日本に拠点を移し、陶芸やブロンズ、書などにも活動の幅を広げ、琳派に影響を受け日本回帰シリーズへと変化した。
一方、1977年に小説「エーゲ海に捧ぐ」で第77回芥川賞受賞、翌年に映画化の際には脚本・監督を担当したこともあった。
1997年3月8日、熱海市の自宅で亡くなる。享年63歳。

Masuo IKEDA - 20世紀が生んだ日本を代表する版画家


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