オノサト トシノブ

b.1912

バイオグラフィー
オノサト・トシノブ(ONOSATO Toshinobu)
1912–1986
本名:小野里利信
長野県飯田市生まれ
画家・版画家
オノサト・トシノブは、1912年6月8日に長野県飯田市に生まれた。本名は小野里利信。1922年頃から群馬県桐生市に移り、同地で長く活動した。1931年、日本大学工学部電気科に入学するが中退し、その後、津田青楓洋画塾で絵画を学んだ。1935年には第22回二科展に初入選した。
1937年には、自由美術家協会の結成に参加。長谷川三郎、村井正誠ら同時代の前衛的な作家たちと交流しながら、既存の具象絵画から離れた新しい造形表現を追求した。また、植村鷹千代や瑛九らと同人誌『同時代』を創刊するなど、美術批評・前衛芸術の動きにも関わった。
1930年代後半から40年代初頭には、構成主義的な作品を制作し、1940年の《黒色の丸》などによって注目を集めた。しかし、1942年に召集され満洲へ渡り、1945年の終戦後はソ連軍によってシベリアに抑留された。約3年間の抑留生活を送り、1948年に帰国した。
帰国後は、1949年から1950年まで群馬県の中学校で美術教師を務めながら制作を続けた。1950年代に入ると独自の抽象表現を発展させ、1952年頃から、それまでの漢字表記「小野里利信」ではなく、**「オノサト・トシノブ」**というカタカナ表記を作家名として使用するようになった。1955年には新橋の美松書房画廊で初個展を開催した。
オノサトの作品を特徴づけるのが、「円」や「丸」を中心とした幾何学的な構成である。円を単純な図形として配置するのではなく、大小の円、半円、色彩の組み合わせ、重なりや反復によって、画面そのものが動いて見えるような錯視的な空間を生み出した。
京都国立近代美術館は、オノサトについて「錯視的な構成を駆使した独自の絵画空間」を創出し、半世紀にわたって一貫して「丸」を描き続けた作家として紹介している。
1950年代後半からは国内外で評価が高まり、1960年にはワシントンで開催された「抽象日本の美術」展に出品。1963年、第7回日本国際美術展で《相似》により最優秀賞を受賞した。翌1964年にはグッゲンハイム国際賞展と第32回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品し、グッゲンハイム美術館には作品が購入された。
1965年から1967年にかけては、「日本の新しい絵画と彫刻」展がアメリカ各地を巡回し、オノサトも参加。その後も海外で作品を発表し、日本の抽象絵画を代表する作家の一人として国際的な評価を確立した。
版画においても、オノサトはリトグラフやシルクスクリーンを制作した。たとえば《CIRCLE 64-G》や《CIRCLE 66-B》などのリトグラフ、1971年のシルクスクリーン作品などが現在も国内美術館に収蔵されている。
1986年11月30日、群馬県桐生市の自宅で急性肺炎のため死去。74歳だった。

オノサト トシノブ


戻る